日本経済が1955年以降史上未曾有の高度成長を達成した後に迎えた1970年代は、わが国にとって経済的にはもちろんのこと政治的にも社会的にも、また国際的にも国内的にも実に波乱多き時代であったといえます。1960年代にはおよそ想像もつきかねたような困難な課題がつぎつぎに出現し、しかもその多くはまだ解決のメドもつかぬままに今日に至っております。しかし、これらの課題の解決には現在および近い将来の少数の指導的人材の能力と努力だけで十分であるとはとうてい思えません。
1980年代をわが国にとって真に輝かしい時代ならしめるためには、行政も企業も、今日の指導層をたすけ、また明日の指導層としての役割を十分果たしうるための高邁な理想と幅広い識見をもった多数の中堅的人材の育成を急務と致します。かつてもわが国においては、変革の時期には、既存の教育機関で充たしきれない部分を補う新しいタイプの教育的努力が先覚者によっていろいろと試みられて参りました。幕末における緒方洪庵の「蘭学塾」や吉田松陰の「松下村塾」はその典型的なものといえましょう。
比較的最近の例としては、日華事変を契機にわが国が軍部指導者によって半ば強制的に戦争の深みにおちこまんとしていた頃、人間の良心と理性を信ずる一群の知識人と彼らを心底から支持した一部官界、財界の人々によっておこされた「昭和塾」があります。昭和塾は、太平洋戦争の勃発という非常事態の発生のために設立後わずか4年にして解散の止むなきに至りましたが、やがて戦後日本の復興成長期において各分野で重要な役割を果たした人材が昭和塾の塾生から続々と生まれてきた事実は、この塾が当時いかに大きな教育的成果をあげていたかを立証してやまないといえます。
ささやかな機関ながらも昭和塾ははっきりした建学の理念をかかげ、またこの理念に基づいて各分野より主義主張を超えて一流中の一流の人材を講師に招き、向学心に燃えていた有能・真摯な少数の青年を厳選し、高度の知的錬磨、幅広い思想的訓練、自由な人間的交流を試みたのでありますが、このささやかな教育機関が蒔いた種が、戦後の困難な激動期に日本新生の原動力の一部となったことは疑いない事実であります。
「フォーラム’80」は昭和塾の教訓に学びつつ、1980年代のみならず、10年後、20年後のわが国が当面すると思われるいくつかの困難な課題の探求と解明をめざすと同時に、最高の情報を備え、複眼的な判断力を持つ国際的人材の養成を目的とした唯一の教育事業であります。
運営の方法は昭和塾の故知に倣っておりますが、目標とするところは全く新しいものの誕生であり、現状の正しい分析と理解の上に未来に備える判断力・創造的能力を培うことに主力をおくものであります。従って、通常のセミナー、シンポジウムのように高級知識の注入に終わるものでなく、講師、受講生相互の人格的接触、受講生間の恒久的交流を自発的、積極的に求める人間的鍛錬の場であります。
(「フォーラム’80」設立時の大来佐武郎の挨拶より)
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